写真展「イラクは今」 いつ:2004年2月24日(火)〜29日(日) とこで:千葉市稲毛区「市民ギャラリーいなげ」 主催:平和を考える会・ちば 写真展『イラクは今』実行委員会
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写真リポ−ト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美術館の入り口に掲げられていた看板 | 美術館入り口、国道14号線に面しています。 明治時代千葉県下海水浴場の発祥地稲毛海岸に面する崖の中腹にあった宿泊施設「海気館」の跡に建てられています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2月24日(火)初日の様子 | 2月26日(木)3日目の様子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2月28日(土)5日目の様子 | 豊田直巳さんの写真の一部 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2月28日(土)美術館閉館後の荻野仁司(ひとし)さん講演に先立って主催者からの挨拶 | 講演者荻野仁司さん。気さくな人でした。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
講演の最後、実行委員会の事務局から3.20集会への参加呼びかけがありました。 | 2月29日(日)最終日の様子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2003年3月20日の爆撃以降に撮られた写真のいくつか。 | 2月29日(日)5日目最終日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2月29日(日)5日目最終日 | 2月29日(日)5日目最終日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2月29日(日)5日目最終日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
写真展『イラクは今』のアンケート結果について 作成:写真展『イラクは今』実行委員会
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写真展「イラクは今」に334人が来場 私たちは,イラク戦争によってもたらされているイラクの現状を、ひとりでも多くの人に知って欲しいと考え,同時に,この写真展がイラク戦争を止め,平和を願う声が大きくなっていくきっかけになってくれることを願って,この写真展を企画しました。 おかげさまで,写真展には期間中(2/24〜29)男:164名,女:157名,子供:13人,合計334名の入場がありました。そのうち,28日の荻野仁司さんの講演会の参加者数は24名でした。 また,地域的に見ると,千葉市在住者が70%強を占めていました(受付名簿169/230)。船橋,市川,東京,横浜など市外・県外からも多くの方が来て下さいました。 私たちは,この写真展を成功させたるために,出来るだけ多くの方々に来ていただきたいと願って,街頭での宣伝,労働組合や各種団体への呼びかけ,新聞社や情報誌へ掲載のお願い,公民館などへの案内のお願いを行ってきました。宣伝用チラシは3000枚作成し配付しました。かならずしも充分な宣伝だったとはいえませんが,4つの情報誌(2/6付け「稲毛新聞」,2/21付け「リビング千葉」,2/15付け「あさひふれんど千葉」,2/20付け「地域新聞千葉北版」)に,新聞でも1紙(2/20付け「読売新聞」)で紹介してくれました。また写真展の様子を2つの新聞(2/25付け「千葉日報」,2/26付け「朝日新聞千葉版」)が取り上げてくれました。公民館では案内のチラシを置かせてくれました。このような事によって,たくさんの方々の来場につながったものと思います。 「『目にしなければわからない』ということを思い知らされた」 期間中アンケートをお願いしましたところ,129人の方から回答をいただきました。 その集計結果は次のとおりでした。年齢層で見ると中高年とりわけ60歳以上が50人で約39%を占めています。反対に高校生・大学生,青年層が非常に少ないという結果になっています。この間写真展会場の最寄り駅のJR稲毛駅頭や高校の校門前でも写真展の宣伝を行いましたが,高校生などの青年層の反応が余りよくないという状況でした。しかし,若い人達の関心が低いということでは決してないものと思います。私たちが千葉駅近くの交差点で行った街頭宣伝行動では,若い人達の反応が一番いいのです。だから写真展という形にしろ,自分から行動を起こすのにはもう一つハードルがあるのかも知れません。 この種の戦争展を見たのは初めてという人が,67人で約52%を占めています。ここからも,マスメディアからだけでは知らされない情報を求めているということが窺えます。真実を求めて動いているということではないでしょうか。 今回の写真展の企画を知ったのが新聞や情報誌と答えた方が,67人(複数回答で分母は146人)で約46%を占めています。これに,チラシやポスターや通りかかって寄ったなどを加えると105人で約72%になります。私たちの平和についてのとりくみで,これまでに出会ったことのない人達がたくさんきてくださったということを示すもので,多くの人にイラクの現状を知って欲しいという私たちの願いが少しはかなえられたものと思います。しかし,チラシ・ポスター・ホームページを見て来たという人が少ないのは,これからの課題だと思います。それから,写真展の賛同団体の会員・賛同人・労働組合員の方々にも,もっとたくさん来て欲しかったと思っています。 感想文を見ると,「具体的で心を痛めた」「生々しい写真を見ると実情が本当に悲惨なことがわかる」「『目にしなければわからない』ということを思い知らされた」「最大の被害者は子供達」というように,この写真から多くの人がアメリカの戦争の不正義性を感じていることがわかります。「百聞は一見にしかず」ということを感じます。「もっとたくさんの人に見て欲しい」「イラクの人達の悲惨な生活や苦しみが一日も早く終わって欲しい」という感想を多くの人が語っています。 今回の写真展は,多くの反響があり,手応えを感じた展示会でした。 @ あなたは、 A 戦争展(他の同種の展示会を含む)に来たのは、
B この戦争展を何で知りましたか C あなたは、イラク戦争について(1つ以上選んでください。) (複数回答可)
D 今後、取り組んでほしい企画があったら、お書きください。・・・・・別記 E この戦争展(講演会)についてのご感想をお書きください。(足りない場合は裏面へどうぞ)・・・別記 資料(アンケート用紙)
●イラク派遣軍(日本)の様子(60歳以上) ●講演会など(60歳以上) ●平和に連なる企画をとりあげて欲しい(60歳以上) ●戦争反対を叫んで欲しい(50歳代) ●イラク戦争の現実を風化させないよう,2回,3回とシリーズ化して欲しい。(大学生) ●亜細亜で働く子供達(19歳以下) ●自衛隊支援活動報告(40歳代) ●目で見えにくいかも知れませんが,日本国憲法9条を守り育てていくような(50歳代) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
荻野仁司さん講演会から いつ:2004年2月28日(土) 19:00〜21:00 どこで:千葉市稲毛区「市民ギャラリー・いなげ」 リポート:管理人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
なぜ平和運動に携わるようになったのか: 荻野さんの平和運動に携わるきっかけは、9.11以降、いろいろなピースウオークに参加することから始まりました。有事法制が問題になるなか、CHANCEの立ち上げでは「反戦」でなく「平和」と「環境」の切り口から参加しました。 その後、国会で「イラク特措法」審議を傍聴し、荻野さん自身が戦争体験がなく(荻野さんは今年44歳)、「平和運動を続けてゆくには「イラクの現地を体験するしかない。」と考えるようになりました。 イラク入と現地の治安: イラクへは、医薬品などの支援を目的とする日本人のボランティアの人々と一緒に、昨年10月(’03年10月)に日本を出発しました。現地の治安情勢が悪いことは分かっていたので、「もしも」のことも覚悟して出かけたそうです。 医薬品をヨルダンで購入してから、車を雇ってイラクに入りましたが、やはり現地は戦争状態で治安状態が極端に悪く、ホテルに泊まっていると毎夜、爆発音がして恐ろしかったのですが、それも、2、3日で慣れたそうです。しかし、日本に戻ってからも、車のマフラーの破裂音を聞いたりすると、やはりビクっとすることがあるそうです。 10月12日、ホテルの前で自爆テロがありました。ホテルには、これを防ぐため、コンクリートの防護壁が廻らせてありますが、このそばで警備をしているのはイラクの人でした。その人がどうなったのか胸が痛みました。 親日的で暖かみのあるイラクの人たち: イラクの人々はすごく親日的です。同じアジア人であること、日本企業とその製品を通して親近感を持ってくれているようです。(管理人注) とにかく人が好く、暖かみがあるので戦争のことを忘れてしまいそうになってしまいます。ずっといて手伝いをしていたくなる気持ちにさせられました。荻野さんたちは「薬を持っていって、人の暖かみを貰ってきた。」と嬉しそうに語っていました。 (管理人注:それに加えて、日本がかつて、アメリカと戦争して負けたこと。原爆の犠牲を蒙ったこと。それにもかかわらず戦後平和憲法のもと、復興を成し遂げたこと。戦前戦後を通じアラブの国々とは戦争をしなかったことなども親近感を持ってくれる要因になっていることを幾人もの中東研究者が指摘しているところです。) バグダッド、バスラの病院で: 病院の薬品倉庫はほとんど空っぽでした。不足が深刻です。また、病院のスタッフも不足しています。イラクでは、看護師さんはエリートの職に属するため、すぐにデスク・ワークについてしまいます。患者10人に1人くらいの配置になっています。日本の病院と違って病院食が出ません。病人用の食事は家族が家から持ち込んでいます。 イラクでの失業率は極めて高く(60〜70%といわれています)、入院ができれば良い方です。また、再入院が必要でも、ほとんどこれができません。病院についての話は尽きることがありません。 (荻野さんたちは、薬品の供給で病院を訪問したとき、病室の子どもたちを見舞っています。玩具をプレゼントして、同行の誰かがピエロの鼻をつけて子どもたちの元気を引き出そうとしている写真がありました。しかし、ベッドの上の子どもたちの顔が笑っている写真が少なかったのが気になりました。) イラクの子どもたち: バグダッドでは、音楽・バレー学校を訪問しました。ここの学校は埼玉県の共栄高校と生徒同士で文通をしています。しかし、日本がイラクへ自衛隊を出すことを決めたときには、先生は「自衛隊を出すのに白々しい」といって、日本からの手紙の受け取りに、クレームがつけたことがあったそうです。 イラクの子どもたちはサッカーが好きです。今回、同行の木村牧師が、昨年3月、人間の盾としてイラクを訪問したとき、子どもたちから「今度くるときサッカーボールをお土産に」と、頼まれました。日本に戻ってから明治学院高校の女子生徒達が街頭募金で集めたお金でこれを買い、次の訪問のときに子どもたちに手渡しました。そのお礼の、子どもたちの寄せ書きには、「サッカーボールありがとう。でも自衛隊はいらない。・・・」と書いてあったそうです。 ストリート・チルドレンもかなりいて、子どもの人身売買も行われているようです。「ワンダラー」といってお金を無心する子もいました。しかし、お金を与えると、そのお金をほかの子どもに狙われ、あげた子に危害が及ぶということを聞いていたので、胸は痛むもののこれをあげることはしませんでした。 イラクへ派兵された米兵のこと: 米兵も親日的でした。日本を出発するにあたって、日本の人から米兵を励ます手紙を書いてもらって、持って行きました。「命を大切にするように」との内容です。21歳の米兵に手渡すことができましたが、彼はしばらくその手紙を見ていて、「隊に戻って、仲間に回覧する」と言いました。また、「6ヵ月後に、帰国することができるので、家族や友達に会うのが楽しみだ。」といっていました。 湾岸戦争では65万の米兵がイラクに派兵されました。そのうち23万人が劣化ウラン弾で被爆し、1万人もの人が、これに起因する病気で死にました。また、23万人の被爆者のうち68%の人たちの子どもに、奇形児が生まれました。これらの人達は今も被爆の認定が受けられずにいます。サマワに派兵された自衛隊員も同じ目に遭うのではないか大変に心配です。 自衛隊のサマワ派兵について: イラクでは電気の自給率が20%。あとは隣国から電気を買っています。「3 by 3」といって電気が3時間送電されて、3時間停電するのが常態になっています。電気が止まれば水も出ません。これを知らなかったので、トイレ用の水を貯めておかず、これが一番困りました。今も状況は変わらないだろうとのこと。 サマワで給水支援といっても、一軒一軒に配られないと、意味がありません。現地の人と触れ合う形にならなければ支援になりません。人と人が繋がることが最も大切だと思います。(自衛隊の給水部隊が基地の中に閉じこもって、作業だけしていたのでは、支援の効果半減ということか。)この意味で、自衛隊の医療支援も現地のスタッフの支援だけでは、イラクの人たちに顔が見えないことになります。 今後にイラクについて: イラクは、ナツメヤシの収穫量が世界第3位であるなど、農業は盛んです。イラクの人たちは、必ずしも工業化に賛成の人ばかりではありません。 失業率が60〜70%、就学率は20%だけれど、イラクの子どもたちには将来に向かって夢があります。「先生に」、「医者に」・・・と。決して希望を捨てていません。(どうしてこのような状況で希望が持てるのでしょうか?と講演会場の若者から質問がありました。管理人はこの答えを聞きそびれましたが、あなたはどう思いますか?) イラク人の失業率はかくの如しですが、働いている人でも一月の収入は20〜30ドル(2200円〜3300円程度)です。(一月の生活費に300ドルはかかるそうです。)。 (産油国であるのに)ガソリンを買うのに2日も並ぶ。アメリカのインフラ復興が始まったところもありました。 今となっては、「戦争反対」を唱えるのでなく、自衛隊を早く戻せと言いたいです。人が集まったら各自缶ジュース1本分のお金が集まれば、現地の復興に真意に役に立つ、顔の見える支援が行えます。 募金にご協力をお願いします。 以上が荻野さんのお話の要約です。結局、アメリカの顔を立てるだけの自衛隊の派兵による「人道復興支援」では、イラクの人々の真に役立つ復興はできない、ということのようです。 民間の人がイラクの人の顔を見ながら行うものでなければならぬ、ということがよく分かりました。 このような支援から築かれる信頼関係が、私達の将来にとっても、何より大切な財産となるのでしょう。 |